騎士道事件 【正当防衛と誤想過剰防衛】

Pocket

日本にはUK(英国)と比べてヘンなところがたくさんある。

ただの流行風邪で病院の窓口に並んでいるところ

選挙カーという和製英語の自動車が大音量で走るところ

どう見てもグリーンとしか見えない信号機をブルーと言い張るところ

日本語も、難しすぎていつまでたっても習得できない。

だけど、日本は良い国だ。日本語ができなくても皆親切にしてくれるし、気候も暖かい。住み始めて2年目になるが、UKに帰りたいとは思わない。

特に、カラテとジュードーは最高だ。今日の稽古も楽しかった。

日本人がルールを守るのはブシドー精神の現れだと思う。

古来からのストイックな精神はボクに向いているし、カラテの攻撃とジュードーの防御を覚えれば危険な場面でも対応できる。

「There is no dangerous place in Japan(日本ではそんな危険な場所すらないけれど)」

エドワルド・コベットは独りごちる。

夏の夜風が心地よい。市川市内の自宅まであと1km。自宅では日本で生まれ育った妻が待っている。エドは自転車のペダルを強く踏んだ。

両側に倉庫が増えて明かりもまばらになってきた。江戸川区の隣とはいえ、千葉県に入ると店の灯りが急に減ってきて寂しい雰囲気になってくる。

どこかで、人の声が聞こえてきた。言い争いをしているようだ。ふざけるんじゃないと聞こえた。

Do not be silly?日本語の意味は分からないが、とにかくトラブルに違いない。

Let sleeping dogs lie.(触らぬ神に祟りなし)

諺には従うものだ。エドは通り過ぎようとした。

「ヘルプ・ミー!」

突然、英語で呼びかけられたので驚いて声のする方向を見た。

レンガが欠けて錆びたシャッターが降りている。シャッターにもたれかかるようにして見知らぬ女性が倒れていた。緑のワンピースが街頭の光を受けて鮮やかに映える。

このドレスも日本では青というのだろうか、と考えながらエドは声をかけた。

「ダイジョウブデスカ」

女性はエドに向かって手を伸ばしてきた。

「ヘルプミー、ヘルプミー」

女性に近寄るエドの視界に突然、男が割り込んできた。

 

明石安雄は夕方から気が重かった。せっかくの土曜日だというのに。

妻の孝美に向かって声をかける。

「なあ、俺も行かなきゃいけないの。」

「あたり前でしょ。あなたの友達じゃない。」

今晩は友人の赤井敏(さとし)夫婦との飲み会がセッティングされている。

敏は良いヤツだ。酒癖さえよければ。あいつは、高校時代から酒癖が悪かった。安雄は記憶を遡った。

高校に入学したときの初めてのクラスで、あいうえお順に席をわりふられた。安雄の前の席に座っていた髪を赤茶色に染めた生徒が振り向いて話しかけてきた。敏とのつきあいはそこから始まった。

「家に遊びにこない?」と誘われて敏の自宅に行った。

古い木造建築のアパートで、安雄がいつ遊びに行っても両親の顔をみたことがなかった。安雄は何となく事情を聞いたら悪いような気がして、何もきかなかった。

敏の両親がなぜいつも不在だったのかは未だに分からない。

敏の部屋には、ブルース・スプリングスティーンのポスターが貼ってあった。

安雄は洋楽ロックにくわしくなかったので、その名前もアメリカ民衆の代弁者と言われるロッカーだということも敏から聞いて初めて知った。

そして、煙草と酒の味も。

安雄は煙草も酒も1回味わっただけで、もうこりごりだった。それでも敏との付き合いを続けたのは自分にないものを持っているような気がしたからだ。

「ベトナム戦争に振り回された男が、地面に這いつくばってアメリカを睨み上げているシーンが目に浮かぶ。」

ボーン・イン・ザ・USAという曲を聴きながら敏が安雄に投げかける言葉の意味は良く分からなかったが、熱を帯びた目つきは今でも覚えている。

その頃から敏は酒を飲むといつも安雄にからんできた。

「安雄は恵まれてるよ。本当の貧乏を分かっていないお坊ちゃんだ。」

敏の生活と比べると、安雄は家に帰れば母親が夕飯を用意してくれている。生活は確かに敏より恵まれていたかもしれない。

安雄は、何となく一人前の男になっていないような劣等感を敏に感じて何も言えずに黙って聞いていることが多かった。

敏とのつきあいは、そのまま社会人になった今でも続いている。敏とゆかりが結婚するときに夫婦で披露宴に呼ばれたこともあって、今では付き合いは夫婦ぐるみとなっている。

安雄はマンションの部屋から窓の外を見た。品川のオフィスビルと東京湾、その先には東京ディズニーランドがあるはずだ。その先に敏が住む市川市がある。

ああ、嫌な予感がする。安雄はもう一度大きなため息をついた。

 

安雄が孝美と一緒に夕飯を軽く食べた後、敏に指定された市川市内のスナック「サワ」という店に向かった。

店に入ると、敏と妻のゆかりがサワのママと話をしながら飲んでいた。土曜日の夜ということもあってか、店内は満席の大盛況だ。

「ママはいいな。大もうけだ。でも客層が悪いよ。品の無い客ばかりだ。」

すでに、敏はからみモードに入っていた。最近になって生やしはじめた無精髭からよけいに怪しげな男に見えてしまう。

あいかわらずだな、と安雄は思った。声をかけるのをためらっていると、敏の隣の柄の悪そうな男が敏とゆかりに向かって声を荒げた。

「さっきから黙って聞いていれば、ふざけやがって。俺を馬鹿にしているのか!」

「俺は何も言ってないぜ」

敏は小馬鹿にしたように鼻で笑った。

男が立ち上がった。190cmを超えるような巨漢だ。

安雄は心配になって、急いで仲裁に入った。

「すみません。こいつには悪気はないので許してやってください。」

巨漢の男は虚を突かれたような顔をした。

「ふん。こいつはそうかもしれないが・・・言葉に気をつけろ。」

男はそう言って座りなおした。

安雄がほっとしていると、その脇をゆかりが小走りで抜けていき、店を飛び出していってしまった。

ああ、またこのパターンかと安雄はうんざりした。

「おい、追いかけなくていいのか。」

敏に声をかけてとりあえず孝美と座ることにした。

「悪い。少し待っててくれ。」

敏は言って、店から急いで出て行った。

 

エドは、驚いて男を見た。白い半袖のTシャツの男が女性の手をつかんでいた。女性はすがるような目をエドに向けた。

また投げ飛ばされたら女性が大怪我をしてしまう。エドは男に日本語で声をかけた。

「ヤメナサイ。レディデスヨ」

男はエドの方を振り向いた。

エドは、女性に暴力をふるうのは止めるように伝えようと、両手を胸の前に上げて手のひらを開いて男に向けた。

すると、男は胸の前で両拳を握って左手を前に右手をやや後に構えた。いわゆる、ボクシングのファイティングポーズだ。

ボクシングのフットワークは怖い。一瞬で間合いを詰められる。

スウェーバックという上半身を素早くそらして避ける技術があることも知っていた。男にスウェーバックでかわされたら、その直後にパンチを受けるのはエドだ。蹴りを外してはいけない。

エドは、自分の身を守るために、男の右顔面付近を左足で回し蹴りした。エドの強烈なキックを受けて、男は転倒した。

エドは女性に近寄った。

「ダイジョウブデスカ?」

たまたま通りかかった人に、エドは警察と救急車を呼んでくれるように頼んだ。女性は惚けたように倒れている男を見つめている。

 

「主文。被告人を懲役1年6月に処する。この裁判の確定した日から・・・」

エドは法廷にいた。目の前の裁判長が言っていることが理解できない。チョウエキ?プリズン行きということか。

裁判長は続ける。

赤井ゆかりを追いかけてスナックから出てきた夫の赤井敏が、再度店内に戻ったため、同女は「てめえ出てこい」などといって店舗の前で自分の夫をののしりながら暴れ出した。

そのため、被害者が「やめなさい」などいってなだめながら同女の腕を押さえると「ふざけんじゃない」などと毒づいて暴れた・・・

エドは自分の弁護人の方を振り向いた。難しそうな顔をしている。1回は無罪判決をもらったのに、それがひっくりかえってしまったということだろうか。エドの心に黒い不安の雲がムクムクとわきあげてきた。

 

安雄が赤井夫婦と酒を飲むことに気が進まない最大の理由は、敏の妻のゆかりが敏に輪を掛けて酒癖が悪いからだ。敏は知人にしかからまないが、ゆかりは飲み過ぎると、誰彼かまわずからむ。

一緒に飲んでいて、他の客とトラブルになったことも何度もあった。

サワで巨漢の男が怒っていた理由は、安雄が来る前にゆかりが男の髪が薄いことを聞こえよがしに馬鹿にしていたことにあったようだ。

店の外で敏とゆかりが言い争う声が聞こえる。

しばらくすると、敏だけが戻ってきた。

「おい。いいのか。」

安雄は、敏に声をかけたが、敏は無言で席に座って酒をあおり始めた。

しょうがない、と安雄は席をたってゆかりを連れ戻しに言った。

ゆかりは店の前で敏に向かって「てめえ出てこい」と大声を上げている。
「近所に迷惑だから、やめなさい」

安雄はゆかりの手をとって店に連れ戻そうとした。

「お前、明石、うるさい」「放せ」

ゆかりは毒づいて暴れて、安雄の手を振り払おうとしたため、安雄はゆかりが倒れないようにと腕を強くつかんだ。

ゆかりは安雄を突き飛ばして後に転倒した。倉庫のシャッターにぶつかって大きな音をたてる。

安雄がどうしようかと思案していると、外国人らしい体格の良い男が近づいてきた。

何かゆかりと話をしているようだ。

安雄は間に割って入った。

「私が仲裁に入っているから、放っておいてください。」

安雄は外国人の男に声をかけたが、どうも日本語が分からないらしい。

男は、両手を胸の前に挙げて攻撃的なポーズをとっている。

安雄は怖くなった。自分の体だけは護らなければならない。とっさに両手を上げて体をかばおうとした。

不意に男が左足を高く上げた。頭の右側に衝撃を受けた瞬間、目まいがした。安雄の世界が不意に暗くなった。

 

エドの前で裁判長の言葉は続く。

「被告人が、被害者が両手を上げたことから「ボクシング経験者が殴りかかってくる」という急迫不正の侵害が自身に対してあると誤信したことは認められる。」

「しかし、空手の有段者である被告人が、被害者に左回し蹴りをして死に至らしめたことは看過できない。」

「被告人の行為は明らかに防衛行為としての必要かつ相当の限度を超えたものと言うべく、たとえ誤想過剰防衛といえども-」

エドは思った。

被害者の人には悪いことをしてしまった。でも、ボクだけが悪いのか?

路上で女性が倒れていた時に放っておくのが正しいの?

見知らぬ男がこっちに向かって両手を挙げた人に「ボクシングをやってますか?」と聞けばいいってこと?

ゴソウカジョウボウエイって?

エドには通訳されてもさっぱり意味が分からない。

判決が終わると弁護人がエドの側に来た。エドに向かって「刑務所には行かなくて良いんだけれども・・・有罪判決だから不当な判決だと思う。」と説明してくれた。

エドが傍聴席を振り返ると、助けたはずの女性が可愛らしいグリーンのバッグからハンカチを取り出して涙を拭いている。

離れた所に被害者の妻が座っている。隣に座っている無精髭の男が申し訳なさそうな顔をして何か話しかけている。

加害者は誰で、被害者は誰?エドの頭の中でグルグルと疑問がうずまき続けて止まらなかった。

 

 

~最高裁判所昭和62年3月26日の決定を素材にストーリー構成

 

【コメント】~正当防衛になるときとならないとき

 このストーリーを読むと加害者も被害者も気の毒な感じがしますよね。加害者となってしまった英国人の男性(エド)は傷害致死罪で起訴されました。

 正当防衛というのは、相手が実際に攻撃してきたときに、その攻撃に対して防衛するために相当な範囲でしか認められません。

 しかし、この事案では安雄はそもそも攻撃をしようとしていませんので、それがエドの誤解です。これを「誤想」と考えます。

 そして、安雄が実際に殴りかかってきたわけでは無く両手を上げただけなので、エドの左回し蹴りはやりすぎという意味で「過剰」な防衛行為です。

 そのため、このような事案を「誤想過剰防衛」と呼びます。

 実は、この「誤想過剰」防衛、法律の条文には定められていません。法律で刑の減軽が定められているのは防衛行為が過剰な「過剰」防衛だけです。

 しかし、今回のようなケースで、本来の傷害致死と同じように処罰するのは被告人に気の毒です。

 そこで、過剰防衛の条文の趣旨を考慮して刑を軽くするのが実務の運用となっています。

 この裁判でも、執行猶予3年として刑を軽くしています。

 なお、「執行猶予3年」とは、判決が確定した後3年間犯罪を犯さずにいれば、刑の言い渡しが効力を失うというものです。

 つまり、刑務所に行かなくて済むという点で、軽い刑にしたということなのですね。

 

カテゴリー: 被疑者と被告人のものがたり   パーマリンク

コメントは受け付けていません。