綺麗なうそ【交通事故の休業損害】

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クラブのドアが開いて、安東が入ってきた。

「沙羅、誕生日、おめでとう!」

部屋の中を、きらびやかながら落ち着いた雰囲気の照明が照らしている。安東から沙羅に向かって大きな花束が手渡された。

「うわー!ありがとう。安東さん、大好き!」

沙羅は大きな声で叫んで、安東に抱きついた。

クラブでは、沙羅の誕生日は毎月あった。沙羅はそれを、自分を指名してくれるお得意さんに割り振ってあった。今月は安東の月だ。

1年に何度もプレゼントをもらえる。同じ日にプレゼントを持ったお得意様がバッティングすることもない。沙羅にとっては良いことずくめだ。

「綺麗なウソでお客さんをダマして、お客さんもダマされて喜ぶのがこの世界なのよ。」

沙羅は、このクラブのママである小百合からそう教えられていた。

沙羅は、静岡の高校を卒業したばかりだ。銀座のホステスになって、まだ、1年しかたっていない。

といっても、沙羅は小百合に雇われているわけではない。 沙羅は個人事業主だった。クラブから給料はもらわずに、自分の席で接待したお客さんの代金に応じてクラブから売上を分けてもらうという仕組みだ。

沙羅の売上はいつも現金で小百合からもらって、預金をしないで、現金のまま自宅に置いて使っていた。

とりあえず仕事開始の1年目は、「カクテイシンコク」とかいう税務署の面倒な手続きはしなくて良いらしい。

これもママから教わったことだ。

沙羅は、小百合を尊敬していた。

この銀座で20年もお店を続けられているのは、小百合の器の大きさがあったからこそという評判だ。

沙羅は思った。

(いつか、あたしもママみたいに銀座で成功するんだ。)

店が終わると、もう終電も終わっていた。沙羅はタクシーに乗って帰途についた。赤信号でタクシーが止まった。

キキー! ドーン!

大きな音とともに、沙羅の首から背中にかけて大きな衝撃が走った。

「お客さん、大丈夫!?」

運転手がこちらを振り向きながら大声で言う。沙羅の意識が遠のいていった。

(まぶしい)

沙羅が目をさましたところは病院だった。

保険会社の担当者によると「100%相手が悪い」のだそうだ。沙羅が乗ったタクシーが赤信号で止まっているところに、居眠り運転の車が衝突したらしい。

首や腰、頭が痛いし、両手がしびれる。こんな状態じゃ、長い時間、笑顔ではいられない。ホステスには笑顔は命だ。しっかりと、体を直さなければ銀座で成功するという夢も遠のいてしまう。

沙羅は、できるだけ長く病院に入院して、詳しく検査と治療を受けることにした。最後の病院で、医師から説明を受けた。

特に悪いところは無いらしい。

「気持ちの問題で長引いている可能性もあるよ。気分転換も兼ねて、退院して少し働いたらどうかな。」

沙羅は、まだ手足のしびれを感じていた。でも、早く復帰しないと、せっかくついてくれたお客が逃げてしまうことが不安だった。

結局、沙羅は退院することにした。沙羅がクラブに戻った時には、交通事故から約半年間が過ぎていた。休んだ分の売上は痛いけど、加害者も保険に入っているということだ。収入分くらいは保険から払ってもらえるだろう。沙羅は楽観していた。

ところが、保険会社の担当者から聞いた「キュウギョウソンガイ」という、収入の代わりにもらうお金の額は驚くほど低かった。月にして、約26万円だというのだ。

沙羅は、どうしても納得できなかった。

「あたし、銀座の売れっ子のホステスで、月100万円は稼いでいました。そのうち経費を30万円と見ても70万円の収入はあるはずです。」

担当者は、ハンカチで汗を拭いた。

「わかります。わかります。ただ、その100万円というのは、お店から現金で受け取っていたんですよね。」

「あなたがママからお金を受け取った時、領収証とか書きませんでしたか。ママにとっても、店の経費になるのですから、税金を減らすために領収証は大切なんじゃないですか?」

有るはずがない。

沙羅は、現金で売上をもらい、現金で使っていた。証拠といえば、自宅の引き出しにいれてある現金だけだ。

「ママが、あたしが休んでいたことや、その間の売上を証言してくれますよ。」

担当者は首を横に振った。また、汗を拭く。

「いや、いや。」

「ママが口で何て言うだけでは難しいんですよ。沙羅さんの口座への入金が通帳に書かれてないと。」

「確定申告をしていない個人事業主の収入は、お金の流れが客観的に証明できないとダメなんです。」

だが、沙羅に100万円の売上があったこと、交通事故でその売上を失ったことは紛れもない真実だ。

「あたし、戦います。相手の保険会社が何ていっても裁判でも、月に100万円の売上があったことを証明してみせます。」

沙羅は、担当者に向かってキッパリと言った。

裁判は保険会社が弁護士に依頼してくれた。

判決が出たとの連絡が弁護士からあった。

弁護士からは、沙羅の収入が、やっぱり月に約26万円しか認められなかったといわれた。

沙羅が、判決の紙を読むと、「賃金センサス」とか言う性別や年齢で分けた平均的な収入の統計を基準にしたらしい。

ママが丁寧に作ってくれた証明書も証拠として認めてもらえなかったようだ。

「原告は、確定申告による所得税の納付をしていないため、納税面からの収入の把握が不可能であり、また、前記休業損害証明書をもって原告の収入を裏付けるに足りる証拠とすることはできない。」

(わけわかんない。)

沙羅は、弁護士も、裁判官も世間知らずで、ホステスの現実を知らないのだろうと、ため息を深くついた。

(ママも「カクテイシンコク」をしていないのかな?)

沙羅はふと思った。

 

~東京地方裁判所平成6年12月9日の判決を素材にストーリー構成

 

【コメント】~休業損害(給与所得者と個人事業主の違い)

交通事故の被害者は「休業損害」について、加害者に請求ができます。

休業損害とは、事故前の収入を基礎とする現実の収入減を補償するものです。

給与所得者の場合には、会社も証明してくれますし、比較的明確に金額を出すことができます。

ところが、個人事業主の場合には、適正な確定申告をしていればその申告書で収入を証明できますが、実際の収入よりも少ない額で申告していたり、全く申告していなかったりするケースも珍しくありません。

そんな時には、休業期間の真実の収入の証明は、とても大変です。

もっとも、実際に、自分名義の口座に定期的に入金があれば、それと帳簿や領収書を組み合わせて証明することは可能です。

ただ、この事案のように、現金で売上金を受け取り、現金のまま経費・私用の支払いをしていると、お金の流れが客観的に証明できません。裁判所も原告本人が自分に有利なことを言うだけでは信用するわけにはいきません。

そこで、やむを得ず、「賃金センサス」という国が集計した国民の収入の統計資料を参考にするんですね。

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