戻ってきた夫【婚姻費用】

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雨が降っている。まだ5月だというのに梅雨に入ってしまったのだろうか。

「うつ病なんて嘘に決まってる。」

貴子は自分でも気づかずに口に出していた。

道路を走る自動車が歩道を歩いている男に水を跳ね上げた。男は走り去る自動車を睨んでいる。

マンションの14階の寝室から見ていると、雨の音も、自動車の音も、そして歩道を歩いていた男の感情も別の世界のことのようだ。

おそらく夫はリビングでゴロゴロしてテレビでも観ているのだろう。マンションの壁は厚く、ドアを閉めてしまえば隣の部屋の音すら聞こえない。

そろそろ、子供たちを幼稚園に迎えに行く時間だ。雨だから駐車場への出入りの時間も余裕をもって早く行かなければならない。

貴子は2年前の5月を思い返した。夫は突然「実家へ帰る」と言って出ていった。自分の大事にしていた物だけを勝手に持って。

貴子は驚かなかった。つまり、その程度の夫婦の関係だった。

 

結婚するまでは嫌いではなかった。恋人として付き合っているときには、知識が豊富で頼もしい人だと想っていた。誰もが知る大手のメーカーに務めていることも魅力だった。

「結婚生活に夢を見ちゃだめ」

貴子は、何度も母親から言われたが、夫と一緒に暮らしている日常の中で違和感が大きくなってくるのを止めることができなかった。

貴子はテレビドラマが好きだが、夫はニュースしか見ない。貴子が全く分からない政治や経済を長々と解説する。家事も育児も貴子に押しつけて、休日も手伝おうとしない。

魅力的だった知識が豊かなところは、ただの石頭にしか見えない。大手メーカーに勤めているから、家事や育児に専念している貴子を馬鹿にしているようにしか感じられない。結婚したときにスリムだった体が太ってきたのも気に入らない。

「あげくの果てには、会社を休んじゃうなんて」

夫は、結婚して5年ほど経ったころ、原因不明の体調不良を訴えて会社を頻繁に休むようになった。部屋でゴロゴロしていて一言も返事をしないかと想えば、突然、怒り出したりする。

貴子から見ると、自分勝手な夫の態度について行けなくなった。そして二人の会話がなくなった。

出て行く夫を見て、「ああ、これで離婚になるんだな」と何となく納得した。夫の顔色をうかがわなくても良くなったし、子供たちとし、心の重しがとれて気が楽になった。

だが、楽しい生活は2ヶ月で終わった。

夫が置いていった通帳に給料が入らなくなったからだ。貴子のパートの収入では、マンションの管理費と食費ですら支払いきれない。

そんな時、シングルマザーの友達が教えてくれた。

「旦那と別居したんだったら、あなたと子供達の生活費を旦那に請求する方法があるよ。」

その生活費のことを、正式には「婚姻費用」と言うらしい。

すぐに夫にラインを送った。

「私だけならいいけど、子供たちのことを考えて、生活費を払って下さい。」

しかし、夫は返信も、生活費の支払いもしようとしなかった。

夫が生活費を支払わないときには家庭裁判所に申立をするらしい。窓口に行けば教えてくれるということだったので、貴子は最寄りの家庭裁判所に行った。

窓口で書き方や収入印紙を貼ることを教えてもらって、「婚姻費用分担調停」という話し合いの手続を申し立てた。

貴子は、同居していた時に必要としていた生活費を支払ってもらえるのかと思っていた。ところが、調停では、夫が言うことも聞いて、一定の範囲で決まった額しか決めてもらえないらしい。

夫は、精神的な病気で会社を休んでいるから、残業手当もボーナスも出ていないとか勝手な理由をつけてきた。

それは、夫が怠けているからで、貴子や子供達の生活は夫が自分の生活を切り詰めて守るべきだ。結婚するときに、そういう約束だったのだから。

ところが、調停は貴子が期待するようには進まなかった。

調停での話し合いがつかなかったため、裁判官が金額を決めてくれた。毎月13万円の支払を夫が貴子にするという内容だ。

しかし、13万円と貴子のパート代では、マンションの管理費、幼稚園の費用、光熱水費、食費、自動車の維持費などを支払うことができない。

特に、子供たちの費用は、小学校、中学校へ行くにつれて跳ね上がると聞いている。そのためには、貯蓄もしておかないと、子供達の将来が閉ざされてしまうかもしれない。

貴子は、長く働ける大型ショッピングセンターに仕事を変えて、パートの時間を増やした。倉庫から商品を出して、棚に陳列したり、レジを打ったりすることは初めてで、毎日、子供達を寝かせるとそのまま倒れるように寝てしまう生活になった。

だが、夫が出て行ってくれて、13万円でもお金が入って家の中で自由にできるなならやむをえない。冷え切った夫とマンションにこもる生活には二度と戻りたくないと、貴子は自分を納得させることはできた。

あとは、夫と離婚するだけだ。

 

貴子は、そっとドアを開けてリビングの様子をうかがった。

夫が流しているニュース番組の音が聞こえる。

(もう、ニュースなんてみても役に立たつの)

喉元まで出かかった言葉を止めた。

夫は未だに会社を傷病欠勤しているらしい。

収入がこれから減る見込みだから、毎月13万円も支払えなくなったという。

(でも、どうして私のところに戻ってくる必要があるの?)

貴子は、思わず言った。

「だったら、実家に居れば良いじゃないの!」

しかし、夫は裁判官が書いた審判書を読めという。その書類には、婚姻費用の支払期限は「同居するまで」となっている。つまり、同居したら、婚姻費用は支払わなくて良いと夫は言いたいようだ。

貴子は夫に言った。

「だったら、生活費くらい負担してよ。収入は少なくなっても貯金はあるでしょ。」

しかし、夫は聞く耳を持たなかった。

貴子は、マンションに住むのなら管理費や子供の幼稚園代を支払うよう請求したが、夫は知らぬ顔だ。

そこで、貴子は、やむを得ず、弁護士に相談した。相談の結果、今まで支払わなかった婚姻費用の全額を取り立てることとなった。その方法は、夫の給与や退職金を差し押さえるしかないそうだ。

当然、夫は弁護士に依頼して争ってきた。夫は、うつ病で収入が無いことや、貴子たちと一緒に生活していることから、婚姻費用を支払わなくても良いと主張している。

(弁護士に頼むお金があるんだったら、子供の学費くらい払ってくれても良いのに。)

貴子は何度も思った。

裁判は、貴子の勝ちで終わった。

確かに、夫は自宅に戻ってきており同居している。だから「同居するまでは婚姻費用を支払う」という審判によると、夫の支払義務は消えているように見える。

しかし、今回の場合、夫は実家で暮らしていれば生活に困らない。ただ、婚姻費用を払いたくないために、わざわざ貴子の所へ戻ったのだ。

このように、わざと婚姻費用の支払をしないですむ方法を夫がとった場合には、夫の支払義務は消えないとのことだった。

貴子は、弁護士に説明を受けた時のメモをみた。「民法130条が類推適用(るいすいてきよう)され、夫は払わなければならない」と書いてある。

その意味は全く分からないが、とにかく、法律と裁判所は、やはり弱い者・正しい者の味方なのだと安心した。

(これで、マンションの管理費や幼稚園の費用を払える)

 

夫は、判決後、数日で実家に帰っていった。やはり、生活費を払わないようにすることだけが目的でマンションに帰ってきたらしい。

別居生活を取り戻して、貴子はすがすがしい気分だった。後は、離婚の手続きをじっくりと進めていけば良い。

それから2ヵ月ほど経過した頃、家庭裁判所から書類が送られてきた。書類は2通あった。1通には「婚姻費用減額調停」、もう1通には「面会交流調停」と書いてある。

貴子は、よくわからないので弁護士に聞きに行った。弁護士の説明によると、夫は、うつ病による傷病欠勤が長引いて、結局、現在無収入になってしまったようだ。

夫は、それを理由に、これからの婚姻費用の大幅な減額を求めているらしい。

また、子供たちと月1回、貴子の立ち合いなしで会うことを求めているとのことだった。

貴子は、「子供達の幼稚園の費用すら支払わない人に、子供に会いたいなんていう権利はあるんですか?」「私は絶対に会わせません」と強く言った。

弁護士の説明によると、夫は貴子名義の口座にお金を入れたくなくて支払いを拒否したそうだ。子供たち名義の口座を作れば、貯金を取り崩して振り込むと言っているらしい。

(だけど・・・)

貴子は、子供たちを自分がしっかりと育ててきたという自信があるからこそ、面会させるということに納得できなかった。夫は子育てはしていない。夫なんかいなくても、立派な大人に育てることはできる。

弁護士からは、

「夫の収入が審判の時より大きく減っている以上、減額は認められるでしょう。」

「あとは、面会を認める審判が出た場合に、どのように対応されるのかは考えておいた方が良いですよ。」

とアドバイアスされた。

裁判所の考え方では、面会交流は貴子の権利ではなく、子供の権利だということらしい。

(生活費を削られても、子供を会わせなければならないの?)


貴子の頭に、「面会は子供の権利」という言葉が何度も浮かんでは消えてた。

今日も雨が降っている。外の風景だけでなく、自分のことも何か人ごとのようだ。

何も知らない子供たちの笑い声が遠のいていった。

 

~「名古屋家庭裁判所 岡崎支部 平成23年10月27日の判決」を素材にストーリー構成

 

【コメント】~婚姻費用
婚姻費用というのは、夫婦が別居した場合に、扶養義務がある方(多くは夫)が、他方配偶者に支払う生活費です。

夫婦である以上、生活をお互いに支えあう義務が民法上規定されていることが根拠となっています。

ですから、離婚してしまえば、夫婦はただの他人ですから、婚姻費用は発生しません。未成年の子供がいる場合に、養育費の支払いを親権者(監護権者)が請求することになります。

また、別居して家計が別になっているために発生する請求権ですから、同居している時には、発生しません。そのため、上に書いた裁判のように、一旦別居した夫が戻ってきた時に、婚姻費用が発生するのかが問題となるんですね。

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